2018年10月23日火曜日

【作詞解説】"ハートをノックする" 【capo】

                        作詞作曲: capo


息を止めているときはいつも 心臓の音を聴ける
不安を振り払うときはいつも 景色と繋がるんだ

好きなものはとっておく主義
握り締めてダメにしてしまわぬよう

誰のために生きているの?
僕の宿題は何?
悔しいと思うのはなぜ?
生きているから

ハートをノックする
ハートをノックする


胸を突いて走り去って行く者は 孤独を知り抜いている
虚無の海に飛び込んで浮かんで 自分を創るんだ

独りきりで繋がるパス
手繰り寄せてスープの具にしてしまおう

溢れ出すのを待っていたら
時間に塗り潰されるから
楽しいと思う砂利道で
石を蹴るんだ

ハートをノックする
ハートをノックする

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 この曲は、僕の「capo」名義のアルバム「Ordinary Boys」の2トラック目になります。
 歌詞の解説を自分で書くという行為に対しては、リスナーの想像に任せたいという思いもあって、若干の迷いがあるのですが、この解説ページをあまりSNS等で宣伝しないことでそこを或る程度担保しておくことにします。

 というのも、解説を一応書いておく必要を感じているのは、一つはライブで歌っても多分あまり意図が伝わっていないと感じることが多いからです。歌詞の意味が全て伝わらずとも、そこから滲み出る何かを味わってもらえればそれで良いのですが、どこかで作詞の意図を示しておく必要が微妙にあると感じて、書くことにしました。

 前置きはさておき、詞の内容に入って行きます。
 
“息を止めているときはいつも 心臓の音を聴ける
不安を振り払うときはいつも 景色と繋がるんだ"

 1コーラス目Aメロです。
 実際に息を止めても、心臓の音は聴こえないです(笑)。これは僕の感覚的イメージなので説明しづらいのですが、意識的に自身を静止させた時に、鼓動だけが聴こえて生命の動態を実感できる、というふうな感覚です。もっと上手い説明をしたいのですが、名辞以前の何かに属するフレーズなので、これ以上は説明できません。

「景色と繋がる」というのは、自分の内面意識を外的世界に接続することです。これは、僕がほぼ日課としている散歩中によくやる行為です。誰でも自然にやっていることかもしれませんが、意識的に屋外のあらゆるもの——光、空気の流れ、音、草木、建物、路面などーーを感じる、浴びることで、自分の心身が地球や宇宙の一部であるという一体感を得ることができ、それが心的ストレスを一時的に解消する気がします。多少スピリチュアルかもしれませんが、そうすることで、何か創造的な芸術世界の根源とリンクするような感じがするのです。

"好きなものはとっておく主義
握り締めてダメにしてしまわぬよう"

 1コーラス目Bメロです。
 好きなものをとっておきたがるのは、小さい頃からの僕の性格です。大事なものほどとっておきます。小さい頃、駄菓子屋でチョコレートを買って家でゆっくり食べようと思い、また家に帰る途中で落とさないようにと思い、ポケットの中で握り締めて、手の熱で溶かしてぐちゃぐちゃにしてしまったことがありました。そんなことが何度あったかは覚えていませんが、先日も頂き物の高級チーズを大事に少しずつ削って使っているうちに、大半を腐らせてしまいました。進歩がないですねこのひとは……。
 チョコレートやチーズのように、僕は大切な人に対してもそのようなことをしてしまう傾向があります。
 好き過ぎて大切に思い過ぎて、傷つけまいとし過ぎて、それが返って相手や自分にとって良くない方向に作用してしまうことが何度もありました。そうはならないようにしたいというのが、詞のこの部分です。

"誰のために生きているの?
僕の宿題は何?
悔しいと思うのはなぜ?
生きているから"

 この詞を書いたのは2017年の春頃だったかと思いますが、その頃の僕はアドラー心理学の強い影響を受けていて、「課題の分離」というテーマについてよく考えていました。それがこの1コーラス目Cメロに現れています。
 アドラー心理学は、ここ数年、ビジネス書や自己啓発本の分野でテーマとされることが多く、原典から離れた解釈と応用が見受けられるように思うのですが、僕はアドラー心理学の日本での普及に寄与したパイオニア的存在だと認識しているところの哲学者・心理学者である岸見一郎氏の著作を主に論拠にしています。ただ、僕なりの読解と解釈なのでこの稿に書く内容が氏の説くところとイコールとは限らないことをまず断っておきます。

 さて、課題の分離とは、他の稿でもさらっと触れましたが、僕なりの解釈で言えば、人それぞれに自分の課題があって他人の課題に干渉すべきではないという考え方です。これはアドラーの目的論(過去の原因から未来の行動や結果を導くのではなく、目的に合わせて行動を決めるという考え方。例えば、ある行動の原因がある感情に拠るとは考えず、ある目的のためにその感情を使っていると考える)に根ざしていると思うのですが、例えば、親が子供の課題に過干渉することは、課題の分離を親が出来ていないと考えます。

 子供が進路を決めるとき、親が自分の望む方向に子供の進路を決めさせようとすることはないでしょうか?
 偏差値の高い大学に進学して一流企業に就職することが子供にとっての幸福への道筋であると信じて疑わない親はいないでしょうか?子供も自己プロセスを経てそれを望んでいるならば、それぞれの課題が共通しているということで、問題は生じにくいかもしれません。しかし、子供自身は自分の課題をそのように設定しない、または自分で考えて課題を見つけたがっているかもしれません。「解答」や「解答の処方箋」を親が用意して押し付けることは余計なお世話以外の何物でもないと思います。親には親自身の人生の課題があり、そこに意識を集中すべきです。自分の願望を子供に仮託するのではなく、自身の人生の課題に包摂される問題として子供の進路を見守り、干渉を押さえて共にそれぞれで考えて刺激を享受し合う姿勢が大切だと思います。これは、子供を完全に放っておいていい、ネグレクトしていいという意味ではありません。親子それぞれが自身で考えて課題を設定して向き合って尊重しているかが大切で、また親は子供との適切な関わり方を考えて実践することが自身の課題の一部となると考えます。このことは、親子関係に限らず、様々な対人関係において言えると思います。この「課題の分離」の先に「共同」の望ましい形があると考えます。人の親ではない僕が言うことなので、子育てにおける様々なフェイズの実状には照らしづらいかもしれませんが、今のところは対人関係をそのように捉えています。

「誰のために生きているの?」という詞は、あなたは自分の課題に向き合っているのかという問いかけです。「僕の宿題は何?」というフレーズでは、自身の課題が何であるかを自問自答し直すことを提案しています。これこそ、余計なお世話かもしれないですし、そんなことは当たり前だ、分かりきっている、と思う人からすれば押し付けがましいかもしれませんが、もう一度自らに問い直して何か良い方向に作用するきっかけになる人もいるかもしれません。いないですか、そうですか……。まあ、歌ですから。何かこう、少しぐらいぶつけたっていいじゃない。(と、甘えておきます)

「悔しいと思うのはなぜ?生きているから」というのは、少し別の問題のように見えるかもしれませんが、僕自身の感情に対する課題の一部という感じのことです。僕自身が「悔しい」という感情を抱くとき、それはどういうことなのか?を考えています。例えば、他者との競争、勝負に負けて生じる「悔しさ」はよくあると思います。それから、思い通りに行動できない自身の不甲斐なさに対する「悔しさ」もあると思います。
 僕は、競争原理から生じる「悔しさ」は要らない(=勝ち負けを価値観の中心に据えたくない)と思っているのですが、それでも他者との関係性の中で悔しいと感じることは少しあります。年々少なくなっていますが……。
 それから、他人から嫌なことを言われて「不快」と感じることがあります。これは「不快感」であって「悔しさ」とは似て非なる感情だと思います。これはこれで別に扱うべきだと思うので、分離させておきます。
 他者に負けて生じる「悔しさ」も、自分自身への不甲斐なさから生じる「悔しさ」も、結局は自身の内側に向かう意識の働きだと思います。それは「生きているから」としか言いようがないと。悔しさを内面で昇華して減らすことはできるけれど、生きている限り無くすことは難しいということです。
 そんなことを考えて詞にして、何の意味があるかは分かりません。分からないけれど、思ったことを表してそこから滲み出る何かを感じたい、あわよくば感じてもらいたいと思ってしまいました。短いフレーズにいろいろ込めすぎだろ気持ち悪い!と思われるかもですが、だがそれがいい!と思ってくれる人が1万人に1人でもいれば本望ですし、いなくても構わないというぐらい(微小な強がりですが)のつもりで作詞しています。

"ハートをノックする"

 このサビのフレーズは、リスナーの心の扉を開くのではなくノックしたい、ぐらいの意味です。それは先ほどの「課題の分離」ともリンクします。あなたの心の扉を開くのはあなた自身であって僕ではない。でも、僕はノックぐらいはしますよ、という感じです。コンコン、ぐらい弱いノックかもしれませんし、ドンドン!ぐらい強いかもしれません。それはリスナーがどう感じるかに依るのかもしれません。

 2コーラス目に行きます。

"胸を突いて走り去って行く者は 孤独を知り抜いている
虚無の海に飛び込んで浮かんで 自分を創るんだ"

 胸を突く者とは、人をハッとさせる者です。何らかの気づきや創造性などの「刺激」をもたらす人です。さらに、その刺激を与えておいて、他者のレスポンスを待たずに走り去る、つまり、承認欲求を持たない人です。そのような人は、孤独を知り抜いていると思うのです。自身の能力を誇らず、驕らず、人に良い影響を与えていても気にせずひたすら進んでいく……そのような人がいればかっこいい、そうなりたいという憧れを表しました。あくまで理想の一つなので、そうなりきれるとは思えませんが……。

「虚無の海」とは、自分の自我の根底にある何もない茫漠たる海のことです。ちょっと何言ってるか分からないかもしれませんが、これは近代哲学における発出論的要素の僕なりの解釈です。直接的には、日本の京都学派の哲学者・三木清(1897 - 1945)の「人生論ノート」にある「虚無の上に自己がある」「生命とは虚無からの形成力である」という考え方に基づいています。京都学派は哲学の道で有名な西田幾太郎から始まる一連の哲学の系譜ですが、それらは「無の哲学」であると言えるかと思います。僕は哲学の学者ではないので、京都学派の哲学者達の論文や著作を読み尽くしたわけではなく、現代の哲学者による解説書を読んだぐらいの見識しかないのですが、それを読み解くだけでもなかなか大変でした。ややこしすぎて何度気が狂うかと思ったか……(苦笑)。

 僕なりの解釈でしかないのですが、京都学派の哲学は、当時の西洋哲学における形而上学的存在をあらゆる意識の働きの根源とする発出論(初めに神が存在するという考え方もその一つ)を否定して、真の意識の働きの在り方を相互媒介の中から探り出そうとした「知」の体系だと思っています。ざっくり言い過ぎなのは承知の上ですが……。そして、結局は、「絶対無」だったり「虚無」といった固定的根源が存在するかのような地点に接近してしまったという点で、発出論から脱却できなかったように考えています。まだ読み込みが浅いので、的確な理解ではないかもしれません。
 
 ただ、前述の三木清の「生命とは虚無からの形成力である」という説は、僕の心に深く響きました。しっくりくるのです。つまり、生きる意味は最初からあるのではなく自分で作り上げていくものだということだとも言えると思います。ならば、やはり意識を包摂する媒介としての場が「虚無」であろうと想定するのはしっくりくるのです。僕は「Dystopia」という曲の詞でも、この「虚無」というワードを同じ意味で使っています。この「虚無からの自己形成」というテーマは、僕が重要視するサルトルの実存主義(「実存は本質に先立つ」)にもリンクすると考えています。なぜなら、自己形成とは観念のみに依らず行動から巻き込んでいく形で相互作用しながら遂げられるものだと思うからです。行動とは実存の一つの有り様だと思います。
 
 結局、無の哲学は西洋哲学と共通する要素を帯びるに至ったと思うのですが、生涯を架けて自立的に知を探求していった京都学派の哲学者達を尊敬しています。勿論彼らは、ギリシャ哲学全般からスコラ哲学あたりの素養、カントの目的論やヘーゲルの弁証法、ニーチェの虚無主義、マルクスの唯物弁証法など、各時代の西洋哲学に対するアプローチを踏まえていたように思いますが……今の僕程度の思索範囲と深度と強度ではこれ以上強くは語れません。

"独りきりで繋がるパス
手繰り寄せてスープの具にしてしまおう"

 2コーラス目Bメロの詞です。
 ここはあまり深く考えていません。独りでいる時でも、自分と関係する人々との繋がりを感じられる、そのパス(論理的回路)を蜘蛛の糸のように手繰り寄せて、スープの具にして……何のこっちゃ。よく分からないけれど、口を突いて出てきた、僕の身体の中から出てきたフレーズです。こういうのが出て来た時は、できるだけ使おうとする癖があります。それはたぶん、僕の無意識の層から出て来た何らかの成分を含んでいて、逆に考えて出せるものではないと思うからです。どこまで行っても自己満足。その自己満足にすらなかなか届くものではないですが、そこから滲み出る何かを味わえればと。

"溢れ出すのを待っていたら
時間に塗り潰されるから
楽しいと思う砂利道で
石を蹴るんだ"

 2コーラス目Cメロです。
 ここもあまり深く考えていません。いろんな感情だったり創造性だったりヤル気だったりが自然に発生して溢れ出すのを待ってたら、時間が掛かりすぎて人生終わってまうで!ぐらいの感じです。メッセージというよりは内省というか、或る意味で内向的な僕らしいところです(内向性から外向性に移行することは僕の今後の課題です)。「楽しいと思う砂利道」は、自分が行きたい道なんだと思います。舗装された道ではない、砂利道。最近、道に石が転がってるのってあまり見ないなぁと。石が転がってると躓いたりして危ないけれど、石がある方が何か楽しいし、子供の頃によく石を蹴りながら下校したなぁとか、何気なくそれが楽しかったし、そんなふうに楽しんで行こうぐらいの感じです。「Ordinary Boys」では「石」という言葉に思想的意味を込めましたが、この曲では特に意味を込めていません。

 最後に、やはりこの曲は「ハートをノックする」という主題が全てだと思います。
 基本的に、僕はあまり激しいものを直裁に他者にぶつけたいとは思いません。けれど、僕が紡ぎ出す音と言葉から滲み出る何かをリスナーがすくい取って、何か良い方向に作用すればという思いはあります。その思いに僕は魂を込めて歌います。
 
 僕はあなたの心の扉は開かない。でも、ノックぐらいはするよ。



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