2018年10月23日火曜日

【作詞解説】"ハートをノックする" 【capo】

                        作詞作曲: capo


息を止めているときはいつも 心臓の音を聴ける
不安を振り払うときはいつも 景色と繋がるんだ

好きなものはとっておく主義
握り締めてダメにしてしまわぬよう

誰のために生きているの?
僕の宿題は何?
悔しいと思うのはなぜ?
生きているから

ハートをノックする
ハートをノックする


胸を突いて走り去って行く者は 孤独を知り抜いている
虚無の海に飛び込んで浮かんで 自分を創るんだ

独りきりで繋がるパス
手繰り寄せてスープの具にしてしまおう

溢れ出すのを待っていたら
時間に塗り潰されるから
楽しいと思う砂利道で
石を蹴るんだ

ハートをノックする
ハートをノックする

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 この曲は、僕の「capo」名義のアルバム「Ordinary Boys」の2トラック目になります。
 歌詞の解説を自分で書くという行為に対しては、リスナーの想像に任せたいという思いもあって、若干の迷いがあるのですが、この解説ページをあまりSNS等で宣伝しないことでそこを或る程度担保しておくことにします。

 というのも、解説を一応書いておく必要を感じているのは、一つはライブで歌っても多分あまり意図が伝わっていないと感じることが多いからです。歌詞の意味が全て伝わらずとも、そこから滲み出る何かを味わってもらえればそれで良いのですが、どこかで作詞の意図を示しておく必要が微妙にあると感じて、書くことにしました。

 前置きはさておき、詞の内容に入って行きます。
 
“息を止めているときはいつも 心臓の音を聴ける
不安を振り払うときはいつも 景色と繋がるんだ"

 1コーラス目Aメロです。
 実際に息を止めても、心臓の音は聴こえないです(笑)。これは僕の感覚的イメージなので説明しづらいのですが、意識的に自身を静止させた時に、鼓動だけが聴こえて生命の動態を実感できる、というふうな感覚です。もっと上手い説明をしたいのですが、名辞以前の何かに属するフレーズなので、これ以上は説明できません。

「景色と繋がる」というのは、自分の内面意識を外的世界に接続することです。これは、僕がほぼ日課としている散歩中によくやる行為です。誰でも自然にやっていることかもしれませんが、意識的に屋外のあらゆるもの——光、空気の流れ、音、草木、建物、路面などーーを感じる、浴びることで、自分の心身が地球や宇宙の一部であるという一体感を得ることができ、それが心的ストレスを一時的に解消する気がします。多少スピリチュアルかもしれませんが、そうすることで、何か創造的な芸術世界の根源とリンクするような感じがするのです。

"好きなものはとっておく主義
握り締めてダメにしてしまわぬよう"

 1コーラス目Bメロです。
 好きなものをとっておきたがるのは、小さい頃からの僕の性格です。大事なものほどとっておきます。小さい頃、駄菓子屋でチョコレートを買って家でゆっくり食べようと思い、また家に帰る途中で落とさないようにと思い、ポケットの中で握り締めて、手の熱で溶かしてぐちゃぐちゃにしてしまったことがありました。そんなことが何度あったかは覚えていませんが、先日も頂き物の高級チーズを大事に少しずつ削って使っているうちに、大半を腐らせてしまいました。進歩がないですねこのひとは……。
 チョコレートやチーズのように、僕は大切な人に対してもそのようなことをしてしまう傾向があります。
 好き過ぎて大切に思い過ぎて、傷つけまいとし過ぎて、それが返って相手や自分にとって良くない方向に作用してしまうことが何度もありました。そうはならないようにしたいというのが、詞のこの部分です。

"誰のために生きているの?
僕の宿題は何?
悔しいと思うのはなぜ?
生きているから"

 この詞を書いたのは2017年の春頃だったかと思いますが、その頃の僕はアドラー心理学の強い影響を受けていて、「課題の分離」というテーマについてよく考えていました。それがこの1コーラス目Cメロに現れています。
 アドラー心理学は、ここ数年、ビジネス書や自己啓発本の分野でテーマとされることが多く、原典から離れた解釈と応用が見受けられるように思うのですが、僕はアドラー心理学の日本での普及に寄与したパイオニア的存在だと認識しているところの哲学者・心理学者である岸見一郎氏の著作を主に論拠にしています。ただ、僕なりの読解と解釈なのでこの稿に書く内容が氏の説くところとイコールとは限らないことをまず断っておきます。

 さて、課題の分離とは、他の稿でもさらっと触れましたが、僕なりの解釈で言えば、人それぞれに自分の課題があって他人の課題に干渉すべきではないという考え方です。これはアドラーの目的論(過去の原因から未来の行動や結果を導くのではなく、目的に合わせて行動を決めるという考え方。例えば、ある行動の原因がある感情に拠るとは考えず、ある目的のためにその感情を使っていると考える)に根ざしていると思うのですが、例えば、親が子供の課題に過干渉することは、課題の分離を親が出来ていないと考えます。

 子供が進路を決めるとき、親が自分の望む方向に子供の進路を決めさせようとすることはないでしょうか?
 偏差値の高い大学に進学して一流企業に就職することが子供にとっての幸福への道筋であると信じて疑わない親はいないでしょうか?子供も自己プロセスを経てそれを望んでいるならば、それぞれの課題が共通しているということで、問題は生じにくいかもしれません。しかし、子供自身は自分の課題をそのように設定しない、または自分で考えて課題を見つけたがっているかもしれません。「解答」や「解答の処方箋」を親が用意して押し付けることは余計なお世話以外の何物でもないと思います。親には親自身の人生の課題があり、そこに意識を集中すべきです。自分の願望を子供に仮託するのではなく、自身の人生の課題に包摂される問題として子供の進路を見守り、干渉を押さえて共にそれぞれで考えて刺激を享受し合う姿勢が大切だと思います。これは、子供を完全に放っておいていい、ネグレクトしていいという意味ではありません。親子それぞれが自身で考えて課題を設定して向き合って尊重しているかが大切で、また親は子供との適切な関わり方を考えて実践することが自身の課題の一部となると考えます。このことは、親子関係に限らず、様々な対人関係において言えると思います。この「課題の分離」の先に「共同」の望ましい形があると考えます。人の親ではない僕が言うことなので、子育てにおける様々なフェイズの実状には照らしづらいかもしれませんが、今のところは対人関係をそのように捉えています。

「誰のために生きているの?」という詞は、あなたは自分の課題に向き合っているのかという問いかけです。「僕の宿題は何?」というフレーズでは、自身の課題が何であるかを自問自答し直すことを提案しています。これこそ、余計なお世話かもしれないですし、そんなことは当たり前だ、分かりきっている、と思う人からすれば押し付けがましいかもしれませんが、もう一度自らに問い直して何か良い方向に作用するきっかけになる人もいるかもしれません。いないですか、そうですか……。まあ、歌ですから。何かこう、少しぐらいぶつけたっていいじゃない。(と、甘えておきます)

「悔しいと思うのはなぜ?生きているから」というのは、少し別の問題のように見えるかもしれませんが、僕自身の感情に対する課題の一部という感じのことです。僕自身が「悔しい」という感情を抱くとき、それはどういうことなのか?を考えています。例えば、他者との競争、勝負に負けて生じる「悔しさ」はよくあると思います。それから、思い通りに行動できない自身の不甲斐なさに対する「悔しさ」もあると思います。
 僕は、競争原理から生じる「悔しさ」は要らない(=勝ち負けを価値観の中心に据えたくない)と思っているのですが、それでも他者との関係性の中で悔しいと感じることは少しあります。年々少なくなっていますが……。
 それから、他人から嫌なことを言われて「不快」と感じることがあります。これは「不快感」であって「悔しさ」とは似て非なる感情だと思います。これはこれで別に扱うべきだと思うので、分離させておきます。
 他者に負けて生じる「悔しさ」も、自分自身への不甲斐なさから生じる「悔しさ」も、結局は自身の内側に向かう意識の働きだと思います。それは「生きているから」としか言いようがないと。悔しさを内面で昇華して減らすことはできるけれど、生きている限り無くすことは難しいということです。
 そんなことを考えて詞にして、何の意味があるかは分かりません。分からないけれど、思ったことを表してそこから滲み出る何かを感じたい、あわよくば感じてもらいたいと思ってしまいました。短いフレーズにいろいろ込めすぎだろ気持ち悪い!と思われるかもですが、だがそれがいい!と思ってくれる人が1万人に1人でもいれば本望ですし、いなくても構わないというぐらい(微小な強がりですが)のつもりで作詞しています。

"ハートをノックする"

 このサビのフレーズは、リスナーの心の扉を開くのではなくノックしたい、ぐらいの意味です。それは先ほどの「課題の分離」ともリンクします。あなたの心の扉を開くのはあなた自身であって僕ではない。でも、僕はノックぐらいはしますよ、という感じです。コンコン、ぐらい弱いノックかもしれませんし、ドンドン!ぐらい強いかもしれません。それはリスナーがどう感じるかに依るのかもしれません。

 2コーラス目に行きます。

"胸を突いて走り去って行く者は 孤独を知り抜いている
虚無の海に飛び込んで浮かんで 自分を創るんだ"

 胸を突く者とは、人をハッとさせる者です。何らかの気づきや創造性などの「刺激」をもたらす人です。さらに、その刺激を与えておいて、他者のレスポンスを待たずに走り去る、つまり、承認欲求を持たない人です。そのような人は、孤独を知り抜いていると思うのです。自身の能力を誇らず、驕らず、人に良い影響を与えていても気にせずひたすら進んでいく……そのような人がいればかっこいい、そうなりたいという憧れを表しました。あくまで理想の一つなので、そうなりきれるとは思えませんが……。

「虚無の海」とは、自分の自我の根底にある何もない茫漠たる海のことです。ちょっと何言ってるか分からないかもしれませんが、これは近代哲学における発出論的要素の僕なりの解釈です。直接的には、日本の京都学派の哲学者・三木清(1897 - 1945)の「人生論ノート」にある「虚無の上に自己がある」「生命とは虚無からの形成力である」という考え方に基づいています。京都学派は哲学の道で有名な西田幾太郎から始まる一連の哲学の系譜ですが、それらは「無の哲学」であると言えるかと思います。僕は哲学の学者ではないので、京都学派の哲学者達の論文や著作を読み尽くしたわけではなく、現代の哲学者による解説書を読んだぐらいの見識しかないのですが、それを読み解くだけでもなかなか大変でした。ややこしすぎて何度気が狂うかと思ったか……(苦笑)。

 僕なりの解釈でしかないのですが、京都学派の哲学は、当時の西洋哲学における形而上学的存在をあらゆる意識の働きの根源とする発出論(初めに神が存在するという考え方もその一つ)を否定して、真の意識の働きの在り方を相互媒介の中から探り出そうとした「知」の体系だと思っています。ざっくり言い過ぎなのは承知の上ですが……。そして、結局は、「絶対無」だったり「虚無」といった固定的根源が存在するかのような地点に接近してしまったという点で、発出論から脱却できなかったように考えています。まだ読み込みが浅いので、的確な理解ではないかもしれません。
 
 ただ、前述の三木清の「生命とは虚無からの形成力である」という説は、僕の心に深く響きました。しっくりくるのです。つまり、生きる意味は最初からあるのではなく自分で作り上げていくものだということだとも言えると思います。ならば、やはり意識を包摂する媒介としての場が「虚無」であろうと想定するのはしっくりくるのです。僕は「Dystopia」という曲の詞でも、この「虚無」というワードを同じ意味で使っています。この「虚無からの自己形成」というテーマは、僕が重要視するサルトルの実存主義(「実存は本質に先立つ」)にもリンクすると考えています。なぜなら、自己形成とは観念のみに依らず行動から巻き込んでいく形で相互作用しながら遂げられるものだと思うからです。行動とは実存の一つの有り様だと思います。
 
 結局、無の哲学は西洋哲学と共通する要素を帯びるに至ったと思うのですが、生涯を架けて自立的に知を探求していった京都学派の哲学者達を尊敬しています。勿論彼らは、ギリシャ哲学全般からスコラ哲学あたりの素養、カントの目的論やヘーゲルの弁証法、ニーチェの虚無主義、マルクスの唯物弁証法など、各時代の西洋哲学に対するアプローチを踏まえていたように思いますが……今の僕程度の思索範囲と深度と強度ではこれ以上強くは語れません。

"独りきりで繋がるパス
手繰り寄せてスープの具にしてしまおう"

 2コーラス目Bメロの詞です。
 ここはあまり深く考えていません。独りでいる時でも、自分と関係する人々との繋がりを感じられる、そのパス(論理的回路)を蜘蛛の糸のように手繰り寄せて、スープの具にして……何のこっちゃ。よく分からないけれど、口を突いて出てきた、僕の身体の中から出てきたフレーズです。こういうのが出て来た時は、できるだけ使おうとする癖があります。それはたぶん、僕の無意識の層から出て来た何らかの成分を含んでいて、逆に考えて出せるものではないと思うからです。どこまで行っても自己満足。その自己満足にすらなかなか届くものではないですが、そこから滲み出る何かを味わえればと。

"溢れ出すのを待っていたら
時間に塗り潰されるから
楽しいと思う砂利道で
石を蹴るんだ"

 2コーラス目Cメロです。
 ここもあまり深く考えていません。いろんな感情だったり創造性だったりヤル気だったりが自然に発生して溢れ出すのを待ってたら、時間が掛かりすぎて人生終わってまうで!ぐらいの感じです。メッセージというよりは内省というか、或る意味で内向的な僕らしいところです(内向性から外向性に移行することは僕の今後の課題です)。「楽しいと思う砂利道」は、自分が行きたい道なんだと思います。舗装された道ではない、砂利道。最近、道に石が転がってるのってあまり見ないなぁと。石が転がってると躓いたりして危ないけれど、石がある方が何か楽しいし、子供の頃によく石を蹴りながら下校したなぁとか、何気なくそれが楽しかったし、そんなふうに楽しんで行こうぐらいの感じです。「Ordinary Boys」では「石」という言葉に思想的意味を込めましたが、この曲では特に意味を込めていません。

 最後に、やはりこの曲は「ハートをノックする」という主題が全てだと思います。
 基本的に、僕はあまり激しいものを直裁に他者にぶつけたいとは思いません。けれど、僕が紡ぎ出す音と言葉から滲み出る何かをリスナーがすくい取って、何か良い方向に作用すればという思いはあります。その思いに僕は魂を込めて歌います。
 
 僕はあなたの心の扉は開かない。でも、ノックぐらいはするよ。



2018年9月25日火曜日

【作詞解説】"Dystopia" 【caponyan】

"Dystopia"        作詞作曲:caponyan
http://www.nicovideo.jp/watch/sm33894880 )


Is your reality fulfilled?
Liars, put your hands up!

Is your fantasm breaking?
Fakers, put your hands up!

Is your shell cracking?
Losers, put your hands up!

泣き叫ぶJustice  残骸のMusic
燃え尽きた熾天使(セラフィム)
蒙昧と羞恥のDystopia

火光(かぎろい)揺らめく砂漠を彷徨い
意味じゃなく存在だけを、知った 嗚呼
虚無の底、暗闇に灯った
僕という燈火は消えない

運命があるのなら 神様を殴るから
Plesase, don't catch me, baby  瞬く綺羅星を
ゴミ溜めを掻き分けて 探して 感じて考えろ


Is your sincerity ruined?
Sneakers, put your hands up!

Is your decadance dancing?
Wise men, put your hands up!

Is your honesty frozen?
Escapees, put your hands up!

咲き誇る衆愚  優劣は空虚
枯れた世界樹(ユグドラシル)
賞罰と怨嗟のDystopia

螢火往き交う奈落をたゆたふ
関係の明滅の中、散った 嗚呼
紅の湖に映った
頽廃の残像は要らない

サヨナラがあるのなら 悲しみを殴るから
Please, don't leave me, baby  笑って手を振った
暁を抱き留めて 赦して 最期に解き放て

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 我ながら、中二よのう……という詞なのですが、中二病っぽくなったのは僕という人間のメンタリティが滲み出た結果であって、詞に込めた思いや意味、世界観の核心はまた一味違うかもしれません。

 まず、「ディストピア」という言葉の意味なんですが、僕は「人々が管理され抑圧された社会・世界」という意味で使っています。それは、ジョージ・オーウェルの「1984年」のようなディストピア小説で描かれる世界観とほぼ同義の監視社会のイメージです。なので、廃墟然とした街並みなどのイメージが先行するわけではないです。(管理と抑圧の結果としてそのような風景が「局所的」に存在するというイメージはあります)

 まずそのディストピアの語義を前提として、今の日本や欧米の社会において「人々自らが同調圧力や自縛的に監視する傾向が過剰になって、無自覚にディストピア化に進んでいるのでは?」という思いが、この曲の作詞の動機としてあります。

 その「無自覚なディストピア化」(全員が無自覚というわけではない)を詞の中で集約的に表現しているワードは「蒙昧と羞恥のDystopia」と「賞罰と怨嗟のDystopia」です。

 「蒙昧」とは辞書的な意味で「知識が乏しく道理に暗いこと」を表します。今の時代は、個人主義が行き着く通過点としてのSNSの時代だと思います。ほとんど誰もが自分の考えを短いセンテンスで世界に発信できてしまいます。ほとんど誰でも何でも言えるという状況。そのことは集合知という効用をもたらす一方で、蒙昧な言説も蔓延させてしまいます。知識と読解力と論理的思考の蓄積があって初めて説得力を持つような話題についても、浅い了見の考えがネットに垂れ流され、それに人々が影響されることの何と多いことでしょうか。別に、一律に口を噤めと言いたいわけではないのですが、その蔓延が詞の中の「咲き誇る衆愚」というワードに繋がります。

 次は「羞恥」という言葉に込めた意図について。
 学校や会社で何か失敗をした生徒や社員に対して、「情けない」とか「恥ずかしい」などと上から言う教師や上司、或いは家庭ならばそういった家族はいないでしょうか。つまり、失敗を恥じる、「羞恥心」を植え付ける風土がそこかしこにあったような気がします。このことは人々が責任を伴いつつも自由に物事にチャレンジする勇気を挫くことに繋がり、また失敗が許されない不寛容な社会の醸成にも繋がると思います。この羞恥の蔓延と連鎖が詞の中の「優劣は空虚」というワードに繋がります。

 そして、この「蒙昧」と「羞恥」が「Dystopia」を生むというふうに集約しました。

 次は「賞罰」についてです。
 アドラー心理学において、賞罰教育を否定する捉え方があります。賞罰教育とは、良いことをしたら褒め、悪いことをしたら罰するという、伝統的な信賞必罰の考え方やよく言われる「褒めて伸ばす」にも繋がるものだと思います。
 ある子供を褒めるということは、別の或る子供を褒めないということでもあります。「よくやった、君はすごい!がんばったね!」と褒めることは別の子達に対して「君達はダメだね、がんばらなかったね!」と言っているに等しいとまでは言いませんが、言外にその意味を帯びさせてしまい、子供の優越感と劣等感を煽りかねないと思います。同じことが会社組織の中でも言えるでしょう。
 また、褒められたり怒られたりする側の子供は、「褒められないことはしない」というふうになってしまうかもしれません。「人の目があればゴミを拾うけれど、人の目がなければゴミを拾わない」「叱られないならば悪いことでもやる」といった、行動基準が自身の信念に基づく判断ではなく他者への依存になってしまう懸念です。
 このことは原理的なレベルで問題があると僕は思っていて、そもそも対人関係を対等にしないことが元凶なのではと考えています。褒めるのも叱るのも「上から」のアプローチです。それは非常に抑圧的な性質を持ち得ます。大人と子供、先輩と後輩、上司と部下、それぞれの人間としての根本的な関係性は対等であるべきで、両者の間にあるのは上下ではなく前後の関係、即ち、人生の先輩は水平面上の前方を行く存在であって、垂直面上の上方にいる存在ではないと思うのです。つまり、等しく人は人としての存在に敬意を持ち合うべきで、そのスタンスによって抑圧的でない対人関係が築かれると。そのことは「課題の分離」(人それぞれ自分の課題があって、他人の課題に干渉すべきではない)という形でアドラー心理学でも説かれていることですが、僕はその考え方を大方において支持します。

 詞の内容に話を戻します。
 この「賞罰」は社会に「怨嗟」を生み、社会のブラック化(ディストピア化)の根源の一つとなっているという思いから、「賞罰と怨嗟のDystopia」という言葉を紡ぎました。残念ながら、今の日本の社会は縦社会的な構築のされ方をしてきていて、そこから脱却したいという気運はあるものの、至るところに蔓延っているのが現実だと思います。ただ、縦社会には特有の美しい人間関係も存在します。上下関係の中でお互いを信頼しあう絆のようなものです。物事は悪い面ばかりではないということです。ただ、負の方向に作用しているケースがもたらす深刻さは、その正のケースの効用を凌駕していると思っています。それは、より個人主義的指向性(価値の多様性と言い換え可能)を強めた現代社会に対して、縦の秩序の在り方がフィットしなくなってきているということでもあると思います。

 ここまでは、この「無自覚なディストピア化」に属する詞の内容について書きました。
 ただ、上下関係に拠らない対等な対人関係の在り方はどう築かれるべきか?については、この詞では言及していません。そこについては僕なりに考えがあるのですが、それは別の機会に譲るとして、この「Dystopia」という曲では、ディストピア化する現実社会に対して個人がどう対峙するのか、僕自身がどう向き合っているのかを主題としました。

"火光(かぎろい)揺らめく砂漠を彷徨い
意味じゃなく存在だけを、知った 嗚呼
虚無の底、暗闇に灯った
僕という燈火は消えない"

 上記は、1コーラス目のサビ前のセクションの詞です。
 ここで言う「火光揺らめく砂漠」とは、どのように世界や自我を捉えて生きればよいかが分からない、迷いの世界です。その砂漠を彷徨って知ったのは「意味ではなく存在のみ」。ここには、サルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義の影響があります。さらっと書きましたが、サルトルを詳しく語る力は僕にはありません。とにかく「意味が先にあるんじゃなくて存在が先にある」ぐらいの意図としておきます。デカルトの「我思う故に我あり」とは逆のスタンスとも言えるかもしれません。
 つまり、意味が先にあると考えてしまうと、世の中に蔓延る「意味」に振り回されてしまうとも言えるわけです。そんなもの、実存としては存在しないのです。

 では、そもそも何が最初に意識で捉え得るものとして存在するのか?

 そのアンサーをこの曲では「虚無」としました。
 自我さえ存在しない、虚無だけが最初にあったと。
 つまり、この曲の中の「僕」は自分の意識の中に潜って行って、行き着いた場所は何もない暗闇、虚無だった。出発点が虚無だったことを初めて自覚するのです。
 原初の意識は虚無。人はまず自意識があるのではなく、何もないところに自分の認識の火を灯していく、つまり自己を形成していくという考え方です。その原初の虚無を探り当てた上で自覚的に自分を作っていく、その燈火は最早、自我であり信念でもあり、消えないと。中二くさいですね。

 実はこの考え方は、サルトルの実存主義から京都学派の一人、三木清の哲学に自分なりの解釈で帰結させたものです。この詞世界における哲学的見解なので、実際の僕がこの概念に100%賛成しているわけではありません。実際の僕はまだまだ探究中で、確実な答えを得ていません。ただ、今のところ感覚として比較的しっくりくる見解ではあります。

 というわけで、詞のこのセクションは、ディストピア化する世界の中でもう一度自己を再確認するプロセス、彷徨える自己の再構成であり、さらにその根源は自分の意識の奥底にあったという脱構築でもあります。実際には完全に賛成している考え方ではないと書きましたが、病気をして死と向き合った(結果向き合えなかった)時に得た概念でもあるので、僕にとっては全くの虚妄の絵空事というわけでもありません。

"運命があるのなら 神様を殴るから
Plesase, don't catch me, baby  瞬く綺羅星を
ゴミ溜めを掻き分けて 探して 感じて考えろ"

 1コーラス目のサビの詞です。
 運命とか神様とか実に中二的……言いたいだけやろ的な。
 ですが、これは運命論と神の存在の否定です。
 「運命というものがあるとすれば、神が存在することになる」と考えているのです。だって、人の生には過酷なものが多いじゃないですか。説明したくもないような悲しみ、そして死があります。そして僕はどのようなものであれ、「悲しみ」とは「滅すること」に対して沸き起こる感情だと考えます。そのようなものが神という形而上学的存在によって運命づけられているなら、僕は神様を殴りますよと。でも、神は存在しないし、神に基づく運命も同時に存在しないと考えているわけです。実存主義的な見地に立つならば、やはり神は人が作ったものであって実存ではないと。つまり、神も運命も概念であって、誰かにとって本質ではあるかもしれませんが、実存より先にあるものではないと言いたいわけです。おそらく、思想史的には19世紀に「神々の死」を主張し、ニヒリズム(虚無主義)を展開したニーチェの系譜に連なるかと思います。ただ、宇宙や物質や自然の摂理そのものを神とする汎神論に対してはもう少し複雑な想いがありますが、宗教的な領域だと思うのでここでは触れません。

 そして、"Please, don't catch me(どうか僕を捕まえないで)" と誰に言っているのかは書かないでおきます。
 「瞬く綺羅星」とは、星の王子様的なアレです。大切なものです。
 そして、それは澄み渡った夜空のようなきれいな所にあるとは限らなくて、案外ゴミ溜めのような自分や他者が捨ててきたものが雑然と積んである場所を掻き分けて探すと見つかるのかもしれません。
 そして、「感じて」「考える」のです。ブルース・リーは "Feel! Don't think" と映画の中で言ったかもしれませんが、僕はまず感じてから考えたいと思いました。「感じる」は実体の知覚であり、「考える」はその解釈であるからです。それは、実存主義的な態度かもしれませんし、そうでもないかもしれません。

 2コーラス目のサビ前の詞についても触れておきます。

"螢火往き交う奈落をたゆたふ
関係の明滅の中、散った 嗚呼
紅の湖に映った
頽廃の残像は要らない"

 「螢火往き交う奈落」は1コーラス目の「火光揺らめく砂漠」と対応しているのですが、意味は違います。砂漠は僕一人の迷いの精神世界でしたが、ここでの奈落は沢山の人々の思い、もしくは魂が飛び交う世界、つまり自分の内部ではない他者との関係性の世界です。虚無からの自己形成を自覚している一個の僕という人間が、同期する螢火の明滅のように同調圧力を放つディストピア社会の中で、何がどう散ったのか……については触れないでおきます。

 「紅の湖」というのはすごく中二病的。というか中二そのもの。
 まあその、エヴァンゲリオンのLCLの赤い海のようなイメージです。人々の肉体と魂が溶け合って一つになった湖的な。その水面に映る「頽廃の残像」とは……ここはもう深い意味とかないです。ただかっこよさげなことを言いたかった(笑)。というか、「頽廃の美」とかいう言い回しがあるかと思うんですが、廃れゆき堕落していく「頽廃」というものをかつては「かっこよくて良いもの」だと思っていて、もうそういうものは要らないっていう、どこまで行っても中二病な感じのことを歌っています。要るとか要らないとか言ってる時点で中二ってことです。僕は魔界の王に永遠に中二病と闘う呪いを掛けられているので。(ウッ、また右腕の疼きが……)

 気をとりなおして、2コーラス目のサビに行きます。

"サヨナラがあるのなら 悲しみを殴るから
Please, don't leave me, baby  笑って手を振った
暁を抱き留めて 赦して 最期に解き放て"

 これも1コーラス目のサビと対応しています。「サヨナラ」は人や物事との別離であり、関係性が絶えること、つまり関係が滅することです。さっきも書きましたが、「滅すること」は「悲しみ」と考えるので、悲しみを殴ってでも関係を繋ぎとめたいという感じです。たとえ死や物質的な消滅すらも、関係を絶やす決め手にはならないと言いたいのです。でも、死や消滅によって関係が潰えなくても、あなたが僕を見限ったら関係は断たれるんだよ、だから "Please, don't leave me(どうか僕を置いて行かないで)" と、本当は切実だけどあんまり重たくなっても何だから「笑って手を振った」と。
 そして、自分も含め様々なわだかまりを赦していって、最期には解き放てるよねきっと、という思いをちょっとロック的に語気を強めて「解き放て」としました。解き放つものが何なのか、それはまだ見えてません。でもたぶん、赦した後に残る何かを解き放つんだと思います。つまらないシガラミなどではないと思います。

 最後に、英語詞の部分については何も触れてないですが、ロックを意識しているということで、ディストピア世界に住まう群衆を煽っている感じです。ライブをするとオーディエンスに問い掛ける形になるので、全く失礼な話ですが、皆で半ば自虐的に盛り上がれたら本望です。

 以上、長い解説となりました。
 読む人はそういないかと思いますが、隠し扉を見つけて入って行ったらどんどん奥に通路がある、隠しダンジョンぐらいのつもりです。掘れば何か出てくる遺跡みたいなつもりでもあります。

【作詞解説】"ハートをノックする" 【capo】

                        作詞作曲: capo 息を止めているときはいつも 心臓の音を聴ける 不安を振り払うときはいつも 景色と繋がるんだ 好きなものはとっておく主義 握り締めてダメにしてしまわぬよう 誰のために生きてい...