2018年9月25日火曜日

【作詞解説】"Dystopia" 【caponyan】

"Dystopia"        作詞作曲:caponyan
http://www.nicovideo.jp/watch/sm33894880 )


Is your reality fulfilled?
Liars, put your hands up!

Is your fantasm breaking?
Fakers, put your hands up!

Is your shell cracking?
Losers, put your hands up!

泣き叫ぶJustice  残骸のMusic
燃え尽きた熾天使(セラフィム)
蒙昧と羞恥のDystopia

火光(かぎろい)揺らめく砂漠を彷徨い
意味じゃなく存在だけを、知った 嗚呼
虚無の底、暗闇に灯った
僕という燈火は消えない

運命があるのなら 神様を殴るから
Plesase, don't catch me, baby  瞬く綺羅星を
ゴミ溜めを掻き分けて 探して 感じて考えろ


Is your sincerity ruined?
Sneakers, put your hands up!

Is your decadance dancing?
Wise men, put your hands up!

Is your honesty frozen?
Escapees, put your hands up!

咲き誇る衆愚  優劣は空虚
枯れた世界樹(ユグドラシル)
賞罰と怨嗟のDystopia

螢火往き交う奈落をたゆたふ
関係の明滅の中、散った 嗚呼
紅の湖に映った
頽廃の残像は要らない

サヨナラがあるのなら 悲しみを殴るから
Please, don't leave me, baby  笑って手を振った
暁を抱き留めて 赦して 最期に解き放て

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 我ながら、中二よのう……という詞なのですが、中二病っぽくなったのは僕という人間のメンタリティが滲み出た結果であって、詞に込めた思いや意味、世界観の核心はまた一味違うかもしれません。

 まず、「ディストピア」という言葉の意味なんですが、僕は「人々が管理され抑圧された社会・世界」という意味で使っています。それは、ジョージ・オーウェルの「1984年」のようなディストピア小説で描かれる世界観とほぼ同義の監視社会のイメージです。なので、廃墟然とした街並みなどのイメージが先行するわけではないです。(管理と抑圧の結果としてそのような風景が「局所的」に存在するというイメージはあります)

 まずそのディストピアの語義を前提として、今の日本や欧米の社会において「人々自らが同調圧力や自縛的に監視する傾向が過剰になって、無自覚にディストピア化に進んでいるのでは?」という思いが、この曲の作詞の動機としてあります。

 その「無自覚なディストピア化」(全員が無自覚というわけではない)を詞の中で集約的に表現しているワードは「蒙昧と羞恥のDystopia」と「賞罰と怨嗟のDystopia」です。

 「蒙昧」とは辞書的な意味で「知識が乏しく道理に暗いこと」を表します。今の時代は、個人主義が行き着く通過点としてのSNSの時代だと思います。ほとんど誰もが自分の考えを短いセンテンスで世界に発信できてしまいます。ほとんど誰でも何でも言えるという状況。そのことは集合知という効用をもたらす一方で、蒙昧な言説も蔓延させてしまいます。知識と読解力と論理的思考の蓄積があって初めて説得力を持つような話題についても、浅い了見の考えがネットに垂れ流され、それに人々が影響されることの何と多いことでしょうか。別に、一律に口を噤めと言いたいわけではないのですが、その蔓延が詞の中の「咲き誇る衆愚」というワードに繋がります。

 次は「羞恥」という言葉に込めた意図について。
 学校や会社で何か失敗をした生徒や社員に対して、「情けない」とか「恥ずかしい」などと上から言う教師や上司、或いは家庭ならばそういった家族はいないでしょうか。つまり、失敗を恥じる、「羞恥心」を植え付ける風土がそこかしこにあったような気がします。このことは人々が責任を伴いつつも自由に物事にチャレンジする勇気を挫くことに繋がり、また失敗が許されない不寛容な社会の醸成にも繋がると思います。この羞恥の蔓延と連鎖が詞の中の「優劣は空虚」というワードに繋がります。

 そして、この「蒙昧」と「羞恥」が「Dystopia」を生むというふうに集約しました。

 次は「賞罰」についてです。
 アドラー心理学において、賞罰教育を否定する捉え方があります。賞罰教育とは、良いことをしたら褒め、悪いことをしたら罰するという、伝統的な信賞必罰の考え方やよく言われる「褒めて伸ばす」にも繋がるものだと思います。
 ある子供を褒めるということは、別の或る子供を褒めないということでもあります。「よくやった、君はすごい!がんばったね!」と褒めることは別の子達に対して「君達はダメだね、がんばらなかったね!」と言っているに等しいとまでは言いませんが、言外にその意味を帯びさせてしまい、子供の優越感と劣等感を煽りかねないと思います。同じことが会社組織の中でも言えるでしょう。
 また、褒められたり怒られたりする側の子供は、「褒められないことはしない」というふうになってしまうかもしれません。「人の目があればゴミを拾うけれど、人の目がなければゴミを拾わない」「叱られないならば悪いことでもやる」といった、行動基準が自身の信念に基づく判断ではなく他者への依存になってしまう懸念です。
 このことは原理的なレベルで問題があると僕は思っていて、そもそも対人関係を対等にしないことが元凶なのではと考えています。褒めるのも叱るのも「上から」のアプローチです。それは非常に抑圧的な性質を持ち得ます。大人と子供、先輩と後輩、上司と部下、それぞれの人間としての根本的な関係性は対等であるべきで、両者の間にあるのは上下ではなく前後の関係、即ち、人生の先輩は水平面上の前方を行く存在であって、垂直面上の上方にいる存在ではないと思うのです。つまり、等しく人は人としての存在に敬意を持ち合うべきで、そのスタンスによって抑圧的でない対人関係が築かれると。そのことは「課題の分離」(人それぞれ自分の課題があって、他人の課題に干渉すべきではない)という形でアドラー心理学でも説かれていることですが、僕はその考え方を大方において支持します。

 詞の内容に話を戻します。
 この「賞罰」は社会に「怨嗟」を生み、社会のブラック化(ディストピア化)の根源の一つとなっているという思いから、「賞罰と怨嗟のDystopia」という言葉を紡ぎました。残念ながら、今の日本の社会は縦社会的な構築のされ方をしてきていて、そこから脱却したいという気運はあるものの、至るところに蔓延っているのが現実だと思います。ただ、縦社会には特有の美しい人間関係も存在します。上下関係の中でお互いを信頼しあう絆のようなものです。物事は悪い面ばかりではないということです。ただ、負の方向に作用しているケースがもたらす深刻さは、その正のケースの効用を凌駕していると思っています。それは、より個人主義的指向性(価値の多様性と言い換え可能)を強めた現代社会に対して、縦の秩序の在り方がフィットしなくなってきているということでもあると思います。

 ここまでは、この「無自覚なディストピア化」に属する詞の内容について書きました。
 ただ、上下関係に拠らない対等な対人関係の在り方はどう築かれるべきか?については、この詞では言及していません。そこについては僕なりに考えがあるのですが、それは別の機会に譲るとして、この「Dystopia」という曲では、ディストピア化する現実社会に対して個人がどう対峙するのか、僕自身がどう向き合っているのかを主題としました。

"火光(かぎろい)揺らめく砂漠を彷徨い
意味じゃなく存在だけを、知った 嗚呼
虚無の底、暗闇に灯った
僕という燈火は消えない"

 上記は、1コーラス目のサビ前のセクションの詞です。
 ここで言う「火光揺らめく砂漠」とは、どのように世界や自我を捉えて生きればよいかが分からない、迷いの世界です。その砂漠を彷徨って知ったのは「意味ではなく存在のみ」。ここには、サルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義の影響があります。さらっと書きましたが、サルトルを詳しく語る力は僕にはありません。とにかく「意味が先にあるんじゃなくて存在が先にある」ぐらいの意図としておきます。デカルトの「我思う故に我あり」とは逆のスタンスとも言えるかもしれません。
 つまり、意味が先にあると考えてしまうと、世の中に蔓延る「意味」に振り回されてしまうとも言えるわけです。そんなもの、実存としては存在しないのです。

 では、そもそも何が最初に意識で捉え得るものとして存在するのか?

 そのアンサーをこの曲では「虚無」としました。
 自我さえ存在しない、虚無だけが最初にあったと。
 つまり、この曲の中の「僕」は自分の意識の中に潜って行って、行き着いた場所は何もない暗闇、虚無だった。出発点が虚無だったことを初めて自覚するのです。
 原初の意識は虚無。人はまず自意識があるのではなく、何もないところに自分の認識の火を灯していく、つまり自己を形成していくという考え方です。その原初の虚無を探り当てた上で自覚的に自分を作っていく、その燈火は最早、自我であり信念でもあり、消えないと。中二くさいですね。

 実はこの考え方は、サルトルの実存主義から京都学派の一人、三木清の哲学に自分なりの解釈で帰結させたものです。この詞世界における哲学的見解なので、実際の僕がこの概念に100%賛成しているわけではありません。実際の僕はまだまだ探究中で、確実な答えを得ていません。ただ、今のところ感覚として比較的しっくりくる見解ではあります。

 というわけで、詞のこのセクションは、ディストピア化する世界の中でもう一度自己を再確認するプロセス、彷徨える自己の再構成であり、さらにその根源は自分の意識の奥底にあったという脱構築でもあります。実際には完全に賛成している考え方ではないと書きましたが、病気をして死と向き合った(結果向き合えなかった)時に得た概念でもあるので、僕にとっては全くの虚妄の絵空事というわけでもありません。

"運命があるのなら 神様を殴るから
Plesase, don't catch me, baby  瞬く綺羅星を
ゴミ溜めを掻き分けて 探して 感じて考えろ"

 1コーラス目のサビの詞です。
 運命とか神様とか実に中二的……言いたいだけやろ的な。
 ですが、これは運命論と神の存在の否定です。
 「運命というものがあるとすれば、神が存在することになる」と考えているのです。だって、人の生には過酷なものが多いじゃないですか。説明したくもないような悲しみ、そして死があります。そして僕はどのようなものであれ、「悲しみ」とは「滅すること」に対して沸き起こる感情だと考えます。そのようなものが神という形而上学的存在によって運命づけられているなら、僕は神様を殴りますよと。でも、神は存在しないし、神に基づく運命も同時に存在しないと考えているわけです。実存主義的な見地に立つならば、やはり神は人が作ったものであって実存ではないと。つまり、神も運命も概念であって、誰かにとって本質ではあるかもしれませんが、実存より先にあるものではないと言いたいわけです。おそらく、思想史的には19世紀に「神々の死」を主張し、ニヒリズム(虚無主義)を展開したニーチェの系譜に連なるかと思います。ただ、宇宙や物質や自然の摂理そのものを神とする汎神論に対してはもう少し複雑な想いがありますが、宗教的な領域だと思うのでここでは触れません。

 そして、"Please, don't catch me(どうか僕を捕まえないで)" と誰に言っているのかは書かないでおきます。
 「瞬く綺羅星」とは、星の王子様的なアレです。大切なものです。
 そして、それは澄み渡った夜空のようなきれいな所にあるとは限らなくて、案外ゴミ溜めのような自分や他者が捨ててきたものが雑然と積んである場所を掻き分けて探すと見つかるのかもしれません。
 そして、「感じて」「考える」のです。ブルース・リーは "Feel! Don't think" と映画の中で言ったかもしれませんが、僕はまず感じてから考えたいと思いました。「感じる」は実体の知覚であり、「考える」はその解釈であるからです。それは、実存主義的な態度かもしれませんし、そうでもないかもしれません。

 2コーラス目のサビ前の詞についても触れておきます。

"螢火往き交う奈落をたゆたふ
関係の明滅の中、散った 嗚呼
紅の湖に映った
頽廃の残像は要らない"

 「螢火往き交う奈落」は1コーラス目の「火光揺らめく砂漠」と対応しているのですが、意味は違います。砂漠は僕一人の迷いの精神世界でしたが、ここでの奈落は沢山の人々の思い、もしくは魂が飛び交う世界、つまり自分の内部ではない他者との関係性の世界です。虚無からの自己形成を自覚している一個の僕という人間が、同期する螢火の明滅のように同調圧力を放つディストピア社会の中で、何がどう散ったのか……については触れないでおきます。

 「紅の湖」というのはすごく中二病的。というか中二そのもの。
 まあその、エヴァンゲリオンのLCLの赤い海のようなイメージです。人々の肉体と魂が溶け合って一つになった湖的な。その水面に映る「頽廃の残像」とは……ここはもう深い意味とかないです。ただかっこよさげなことを言いたかった(笑)。というか、「頽廃の美」とかいう言い回しがあるかと思うんですが、廃れゆき堕落していく「頽廃」というものをかつては「かっこよくて良いもの」だと思っていて、もうそういうものは要らないっていう、どこまで行っても中二病な感じのことを歌っています。要るとか要らないとか言ってる時点で中二ってことです。僕は魔界の王に永遠に中二病と闘う呪いを掛けられているので。(ウッ、また右腕の疼きが……)

 気をとりなおして、2コーラス目のサビに行きます。

"サヨナラがあるのなら 悲しみを殴るから
Please, don't leave me, baby  笑って手を振った
暁を抱き留めて 赦して 最期に解き放て"

 これも1コーラス目のサビと対応しています。「サヨナラ」は人や物事との別離であり、関係性が絶えること、つまり関係が滅することです。さっきも書きましたが、「滅すること」は「悲しみ」と考えるので、悲しみを殴ってでも関係を繋ぎとめたいという感じです。たとえ死や物質的な消滅すらも、関係を絶やす決め手にはならないと言いたいのです。でも、死や消滅によって関係が潰えなくても、あなたが僕を見限ったら関係は断たれるんだよ、だから "Please, don't leave me(どうか僕を置いて行かないで)" と、本当は切実だけどあんまり重たくなっても何だから「笑って手を振った」と。
 そして、自分も含め様々なわだかまりを赦していって、最期には解き放てるよねきっと、という思いをちょっとロック的に語気を強めて「解き放て」としました。解き放つものが何なのか、それはまだ見えてません。でもたぶん、赦した後に残る何かを解き放つんだと思います。つまらないシガラミなどではないと思います。

 最後に、英語詞の部分については何も触れてないですが、ロックを意識しているということで、ディストピア世界に住まう群衆を煽っている感じです。ライブをするとオーディエンスに問い掛ける形になるので、全く失礼な話ですが、皆で半ば自虐的に盛り上がれたら本望です。

 以上、長い解説となりました。
 読む人はそういないかと思いますが、隠し扉を見つけて入って行ったらどんどん奥に通路がある、隠しダンジョンぐらいのつもりです。掘れば何か出てくる遺跡みたいなつもりでもあります。

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